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辛旨トーク

終末の棲家としてのケアハウスとの関わりについて

先般、亡くなられた續節子さんは奈良のKというケアハウスに住まわれ、毎週何度も、ご親族が訪問されて温かく命を亡くされるまで見守って世話をされておられました。ヤンチャな續さんにとってはKケアハウスにズット居ることは当初は苦痛だったでしょうが、施設の方々や関西婦人倶楽部の皆さんが常に気を配り対応されていたので、結果的にはKは最適の終末の棲家では無かったのでしょうか? さて僕の母がお世話になっているLというケアハウスもスタッフの皆さんが温かく慈悲に溢れる対応をして下さり感謝しています。僕達、そして續さんの家族も頻繁にケアハウスに足を運んでいるので当人は余り退屈しないでしょう。しかしながら、ケアハウスに住まわれている他の多くの方の家族を余り見受けないのはどういう事なのでしょうか。殆どのケアハウスの住人は要介護認定を受けているハンデイキャップを持った人たちですが、それでも全てケアハウスのスタッフの人たちに世話を丸投げして年に数回しか家族の訪問が無いとしたら、僕が当事者だったら孤独感と絶望感にさいなまれて一気に老込んでしまうに違いありません。いくら老人介護が社会的にシステム化され、お金次第で立派な完全介護型ケアハウスに入所出来ても、家族の温かみや対話が無いほど悲しいことはありません。同時に生きる喜び目標を終末の棲家としてのケアハウスにお世話なっても持ち続ける事は必須だと思います。續さんが97歳で逝去される最後まで僕を含めた関西婦人倶楽部の会員の世話を続けられた様に。僕の母が96歳の今でもクワンチャイのショップカードに入れる折り紙細工をしている様に。ボーとして食事をし寝ている老人たち。人生の目標が生きるだけでは悲しすぎます。

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